メサイア

■ヘンデルの音楽

ヘンデルゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685年2月23日-1759年4月14日)は、ドイツ・ハレに生まれのちにイギリス人に帰化した、バロック期を代表する作曲家の一人です。奇しくも同年にドイツで生まれ、共にバロック期の二大巨匠と並び讃えられるヘンデルとJ.S.バッハですが、バッハが主に教会音楽の分野で活躍し、緻密で精神性の高い音楽を生み出したのに対し、ヘンデルの音楽は伸びやかで自由と気品に充ちた旋律が特徴的、教会音楽に加え、オペラやオラトリオなど劇場用の作品で本領を発揮した事でも知られています。

≪ディクシット・ドミヌス≫、≪シャンドス・アンセム≫、≪デッティンゲン・テ・デウム≫など教会音楽、≪メサイア≫、≪ユダス・マカベウス≫、≪ソロモン≫など25曲のオラトリオ、≪リナルド≫、≪ジュリアス・シーザー≫など45曲ものオペラ、さらには≪水上の音楽≫、≪王宮の花火の音楽≫など器楽曲と、ヘンデルは多様な分野の作曲に才能を発揮し、多くの優れた作品を生み出しました。また、≪メサイア≫のハレルヤコーラスをはじめ、「オン・ブラ・マイフ」、「私を泣かせてください」といったアリアなど、単独で広く愛唱される曲も数知れません。演奏会の場を離れても、≪ユダス・マカベウス≫の合唱曲「見よ、勇者は帰る」が、表彰状授与の定番曲として用いられていたり、≪ジョージ2世の戴冠式アンセム≫の冒頭曲である「司祭ザドク」は、UEFAチャンピオンズリーグのアンセムとして、サッカーファンにはお馴染みであるなど、ヘンデルの音楽は、私たちの生活の中に深く自然に溶け込んでいます。

 

 

 
■ヘンデルとオラトリオ

メサイアを演奏するイメージ25歳でイギリスへ渡って劇場を設立し、およそ20年以上もの長きにわたって、オペラ作家としての確固たる地位と名声を得たヘンデル。しかし、50代を迎える頃には、ロンドンの聴衆の嗜好の移り変わりなどもあり徐々に不評を受け始め、また劇場経営は困難を極め、ついにはオペラ活動からの撤退を余儀なくされました。

失意の淵にあったヘンデルですが、次なる創作の舞台が訪れます。それは、キリスト教の聖書の言葉を、より大衆に親しみやすいドラマ性のある音楽として描く(オペラとは異なり演技は伴わない) “オラトリオ” という分野でした。アイルランド総督からダブリンで慈善演奏会を開く後ろ盾を得て、そしてチャールズ・ジェネンズ(1700年-1773年)から届いた聖書を題材にした台本≪メサイア≫の崇高さに魅せられたヘンデルは、寝食を忘れて作曲に熱中し、取り掛かってからわずか24日間で作品を完成させたと伝えられています。

それまでヘンデルの培ってきた洗練されたオペラ的な手法と相俟って、気高い宗教的作品として見事に昇華した自身初めてのオラトリオ作品≪メサイア≫は、1742年4月13日、ダブリンの「ニュー・ミュージック・ホール」で初演を迎えます。”英語”という聴衆にとっての分かり易さも手伝って、再演を重ねる度に聴衆から絶大な支持と賞賛を得る≪メサイア≫、その後に続く数多くのオラトリオ作品の成功と共に、ロンドンにおけるヘンデルの名声はたちまち蘇ることとなりました。

 

 

 
■ダブリン初演版・メサイア

オラトリオメサイア

1742年≪メサイア≫初演に際しては、合唱をダブリンの2つの聖歌隊から集めた男声16名とボーイソプラノ16名が担当。ソリストとして女声ソロ2人がダブリンに赴きましたが、男声の独唱は聖歌隊員が歌いました。またオーケストラは、当初は弦楽器のみの編成で書かれていましたが、のちにオーボエとファゴットが加えられ、またダブリンには優秀なトランペット奏者がいた為、名アリア「The trumpet shall sound」が付け加えられたと謂われています。これに通奏低音となる鍵盤楽器を加えたものが、≪メサイア≫のオリジナル編成とされてます。

またヘンデルは初演後も、その都度の出演者の都合に臨機応変に対応して、柔軟に楽譜を改訂し演奏を重ねましたが、初演版でかえって私たちの耳に新鮮に飛び込んでくるのは、ソプラノの名曲としてお馴染みの「How beautiful are the feet of them」でしょうか。世にも美しい合唱部が存在しています。さらには「Rejoice greatly , O daughter of Zion」 が4/4拍子ではなく12/8拍子で演奏されていたり、ソロの声部が微妙に異なっていたりなど、大編成化する前の朴訥な姿が味わえるダブリン初演版≪メサイア≫。他稿との違いを発見しその効果を比べてみることも、鑑賞の愉しみと言えるでしょう。

 

 
■ロンドン初演版・メサイア

ロンドンの夜景

前年ダブリンで行われた≪メサイア≫初演は好評を博しましたが、ヘンデルは、本拠地ロンドンへ戻っての上演にはとても慎重でした。広告には≪ある神聖なオラトリオ A Sacred Oratorio≫とだけ謳い、≪メサイア≫というタイトルを用いませんでした。これほどまでの名曲が、ひそやかにロンドンへ凱旋したのは何故か。それは、かつて受けた宗教的な内容を扱ったオラトリオを劇場で上演するということへの批判を避けるため、或いは政治的な配慮をも指摘されています。いずれにせよ、1743年のロンドン初演から翌年の再演を重ねるにつれ徐々に評価を固め、1749年コヴェント・ガーデン劇場での再演に至って漸く≪メサイア≫のタイトルが用いられる事となったのです。

ロンドン初演は、国王ジョージ2世が感動のあまり思わず立ち上がったという逸話でもよく知られていますが(現在では、史実ではないと考えられています)、上記のような政治環境やヘンデルの立場、市民感情の機微を察すると、この逸話が生まれた背景もまた窺い知れるのではないでしょうか。

 

 
メサイア曲紹介 -マヨラ・カナームス東京 定期演奏会より-
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参考文献:クリストファー・ホグウッド 著 『ヘンデル』/東京書籍
三澤 寿喜 著 『ヘンデル』作曲家◎人と作品シリーズ/音楽之友社

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